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大阪高等裁判所 昭和35年(ツ)12号 判決

上告人 辻六三

被上告人 中川善太郎

主文

原判決を破毀する。

本件を大阪地方裁判所に差戻す。

理由

上告理由は別紙の通りである。

案ずるに、原判決が、「本件物件の所有権が本件調停において争の目的とされた権利であることは控訴人(上告人)の主張自体により明白であるから、右所有権の帰属如何についての錯誤は本件調停の効力をなんら左右するものではない」として上告人の本訴請求を排斥したことは所論の通りである。そこで上告人の主張自体から本件物件の所有権が本件調停において争の目的とされた権利であることが明白であるかどうかにつき考えてみるに、原判決の摘示した上告人の主張はつぎの通りである。

上告人と被上告人間に昭和二七年六月二日、大阪簡易裁判所において次のような趣旨の条項を含む調停が成立した。

一、被上告人は上告人に対し本件物件を代金二一四、〇〇〇円で売渡すこととし、上告人はこれを買受けること

二、上告人は前項所定の代金を左の通り分割して、いずれも被上告人住所に持参して支払う

(イ)  内金一三五、〇〇〇円 昭和二七年九月から昭和二八年五月まで毎月末日金一五、〇〇〇円宛

(ロ)  内金七九、〇〇〇円 昭和二八年六月三〇日

三、上告人が前項(イ)の支払を二回以上遅滞したとき、または(ロ)の支払を期日に遅滞したときは即時本件物件を明渡さねばならないこと

右調停は本件物件の所有権が被上告人にあることを前提として成立したものであるが、真実の所有者は上告人である。すなわち上告人は被上告人から昭和二五年二月上旬に金一〇万円、ついで同年三月一〇日頃金六万円を借受け、その担保として当時上告人の所有していた本件物件を被上告人に差入れたことはあるが、これを売渡したことはない。しかるに被上告人は上告人が右金員借入れ並びに担保差入れにつき、公正証言を作成する趣旨の下に被上告人に渡してあつた印鑑証明書と委任状を利用してほしいままに被上告人名義に売買を原因とする所有権移転登記をしたのである。従つて右登記は無効というべきであるが前記調停期日に出頭したのは当事者本人同志であつたため、深く法律関係に考慮を払わず登記を絶体的なものと信じて調停を成立させたものであつて、前記調停には法律行為の要素に錯誤があり無効である。

仮に前記売買が真実に行われたものであるとしても、それは上告人の軽卒、無経験、窮迫に乗じてなされたものであるから、民法第九〇条所定の善良の風俗に反し無効というべく依然所有権は上告人にあり、前同様法律行為の要素に錯誤がある調停というべきである。

というのである。上告人の右主張事実によると、本件物件の所有権が右調停において争の目的とされたか或は所有権に基く明渡請求権が争の目的とされたかは必ずしも明白ではないのである。民法第六九六条を調停における合意に適用する場合、同条にいわゆる「争の目的たる権利」とは、調停の対象となつた事項のうち争の目的となつた権利を指称するものであることは疑がないから、前記調停において対象とされた権利が本件物件の所有権であるとすれば、同条の適用があること明らかであるけれども、若し上告人が本件物件の所有権が自己に存するのに拘らず、被上告人にあるものと誤信し、これを調停の対象となすことなく、その明渡請求権のみを対象とした場合には所有権の有無についての錯誤については同条の適用がないと解する余地があるから、原審としては右調停において対象となつた権利が本件物件の所有権であるか否かについて審究し、その上で判断をなすべきであるにかかわらず、このような措置に出でず、冒頭摘示のとおり判示して上告人の主張をたやすく排斥したのは、審理不尽、理由不備の違法があるといわなければならない。論旨は理由があり、原判決は破毀を免れない。

よつて民事訴訟法第四〇七条を適用し主文の通り判決する。

(裁判官 岩口守夫 安部覚 藤原啓一郎)

上告理由

一、原判決は其の理由に於て、

「調停において当事者間に成立した合意内容を調書に記載したときは右調書の記載は裁判上の和解と同一の効力を有するのであるが裁判上の和解は一面において私法上の和解契約としての性質をも併有するものであるから結局調停における合意についても私法上の和解に関する民法第六九六条の趣旨はその適用がありその限りにおいて調停条項に関する錯誤の主張は許されないと解するのが相当である。しかるところ本件物件の所有権が本件調停において争の目的とされた権利であることは控訴人の主張自体により明白であるから、右所有権の帰属者如何についての錯誤は本件調停の効力をなんら左右するものではない。」

と陳べて控訴棄却の判決を言渡したのである。

二、右判決理由中に、

「本件物件の所有権が本件調停において争の目的とされた権利であることは控訴人の主張自体に依つて明白である。」

と陳べて居るけれ共誤れるも亦甚しく本件物件の所有権が原告にありや、被告にありやは調停に於て全然争の目的とはされてはいなかつた。

争の目的とされて居なかつたものを、争の目的とされて居たと解する処に原審判決理由に明白なる

(そご)あるものである。

三、原判決は民法第六九六条の規定を解して

「総て創設的効力を生じ一旦有効に成立したる和解契約に付ては後日錯誤あることを発見しても其効力を失うことはない。」

と解した処に根本的誤謬を冒して居るものである。

争の目的たらざる事項にして和解の要素を為すものに付て錯誤ある場合には民法第六九六条の適用なく此の和解の効力の有無は民法第九五条の規定に則つて之を訴せざるべからざることは其の判例を枚挙するにいとまが無い。

大審院 大正六年(オ)第四二七号 大正六年九月十八日 判決

大審院 昭和四年(オ)第一、一四二号 昭和五年三月十三日 判決

民法第六九六条の規定は当事者の和解に依りて止むることを約したる争の目的なる権利に付錯誤ありたる場合に限り適用あるに止まり斯る争の目的とならざりし事項にして和解の要素を為すものに付錯誤ありたる場合には適用なきこと明文上疑なく従つて此場合には民法第九五条の規定の適用ある筋合なりとは前記大審院判例の明示する処である。

而して大阪簡易裁判所昭和二七年(ユ)第一八四号家屋明渡請求事件は職権に依て調停に付せられた事件であり、其本案訴訟に於ても亦右調停事件に於ても本件土地建物の所有権が原告にありや、被告にありやに付ては一切争が無かつた。其所有権が当然原告にあることを前提として其土地建物を原告より被告に対し売渡すこと並に其附随事項に付調停を為したものであることは其調停調書を読むとき一目瞭然たるものがある。

換言すれば前記調停に於ては右土地建物の所有権が原告にありや被告にありやに付ての争を止めるために其所有権が原告にありと決定し和解したものではなくて、其調停を為すに当つては其所有権が専ら原告にあることに付ては当事者間に一点の争もなく其前提の下に為された調停であるから斯る争の目的とならなかつた本件土地建物の所有権の帰属と雖右調停に関する限り其要素となつて居るのであり之に付錯誤ありたる場合には民法第六九六条の適用なく、民法第九五条の適用あるべきこと前記各法条に照し一点の疑を容れざるに不拘原審判決は法の適用に於て違法あるものである。

而して原審に於ては未だ法律行為の要素に錯誤ありや否やに付ては未だ判断を為すに至つて居ないのであるから之を原審に差戻す旨の御判決相成度茲に本上告に及んだ次第であります。

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